日本史オンライン講座

立命館大学で講義をされていた秦野裕介先生を中心に、会話しながら日本史を学びます。
ZoomというWEB会議を使い、ライブ中継で進みます。

視聴して楽しむこともできますし、会話に加わることもできます。
毎週木曜日の夜、20時30分開講。

講師と司会

秦野裕介

歴史学研究者、古文書講師
立命館大学を経て 立命館大学大学院博士課程後期課程単位取得
立命館大学(1997年〜2018年、2019年〜)、立命館アジア太平洋大学(2004年〜2018年)で非常勤講師として教鞭を執る。 ラボール学園(2017年〜)で古文書や歴史の講師を務める。

松本恵司

NPO法人Yanosho理事長 浅野陣屋保存ネットワーク代表
京都大学を経て、兵庫県の公立高校で社会科を担当、昨年退職
政治経済・世界史・日本史・地域学と浅く広く教えてきました。
オンライン日本史講座の司会進行を担当しています。



講座の内容

3月4月の予定

天皇の代替わりの節目に皇位継承の歴史を振り返ります。200年ぶりの譲位となるこの機会に天皇の歴史を考えたいと思います。統一テーマは「中世・近世の皇位継承」

1. 3月 7日 摂関政治と天皇
2. 3月14日 院政の開始と展開
3. 3月21日   後白河院政
4. 3月28日 後鳥羽上皇と承久の乱
5. 4月4日 鎌倉幕府と天皇家の分裂
6. 4月11日 南北朝の動乱

7.   4月18日 室町時代の皇位継承
8. 4月25日 戦国時代と天皇

9. 5月2日 江戸時代前半の天皇
10. 5月9日 江戸時代後半の天皇

第15回 室町時代の皇位継承   2019.04.18

室町時代の皇位継承あるいは天皇そのものについてはそれほど知られているわけではなさそうです。しかし、現在まで天皇が存続してきた一つの鍵は室町・戦国時代にあるのではないか、という議論も存在します。例えば、権力や権威が零落しながらもなぜ滅ぼされなかったのか、という問題です。

これに関しては現時点の私の感想では「誰も滅ぼそうと考えなかった」ということになります。問題は「なぜ誰も滅ぼそうと考えなかったのか」です。更にいえば「なぜ必要だったのか」という問いも立てられます。「必要ない」と思われれば簡単に断絶しますから、これは歴史上「必要とされてきた」としか現時点では言いようがありません。

これについては室町時代には世俗的な権力を失いながらも宗教的な権威として存続していた、という見方がなされています。一方で天皇が政治的な存在である以上、政治史的アプローチから接近することなしには天皇をめぐる議論は「結果論的解釈」になっていまうと主張したのが今谷明氏の『室町の王権』でした。

今谷氏は天皇家を乗っ取ろうという計画が足利義満によって計画されたものの、大名たちが天皇と将軍を足利家が独占し、超越的な力を持つことを嫌って義満の皇位簒奪計画を阻止し、その後、後花園天皇によって天皇の権威が急速に回復していく、と考えました。

今谷氏のこの著作は非常に大きな話題を呼び、多くの論争を巻き起こし、室町時代の天皇の研究を飛躍的に向上させました。現在の室町時代ブームを作り出した一人と言えるでしょう。

室町時代の天皇の始まりはやはり崇光天皇と後光厳天皇にあるでしょう。

観応の擾乱の過程の中で足利尊氏が南朝と和睦するという事態が起こります。これを正平の一統といいます。尊氏は南朝を唯一の皇統と認め、和睦する、というものです。

尊氏は弟の足利直義と争う中で、北陸から東国に逃げた直義を討つために後顧の憂いを断つために南朝と和睦したのです。そのためそれまで皇位に就いていた崇光天皇は退位します。これについては後村上天皇は太上天皇の尊号を奉って北朝の顔は立てています。

しかし、最終的に和睦は破れ、南朝は崇光・光厳・光明の三上皇と廃太子の直仁親王を拉致して逃げます。困ったのは室町幕府と北朝です。治天の君も天皇も皇太子もいない、という惨状でした。このような中奇跡的に妙法院に入室する予定であった光厳上皇の二宮の弥仁王が残っていました。南朝は彼ももちろん拉致する予定だったのですが、間一髪逃亡に成功していたのです。かれが即位して後光厳天皇となります。神器も治天の君による譲国の儀式もないまま即位した後光厳は著しく権威を欠落させた天皇となりました。

とりあえず治天の君を唯一残っていた天皇の直系尊属である広義門院に依頼します。広義門院は西園寺家出身で寧子といいました。彼女は当初は渋っていましたが、幕府サイドの強硬な説得に折れ、広義門院が治天の地位に暫定的に付く形で皇位継承をなんとかやりとげます。

しかし、実際には治天たるべき光厳は遠く賀名生の山中にいました。当時の北朝には彼らの帰還を待つという選択肢もあったはずです。粘り強い交渉で彼らの帰還と交換条件を探る、という形でソフトランディングを図るというのが後光厳擁立に反対した人々の意見だったのではないか、と思われます。

しかし、義詮はつっぱりました。光厳は出家し、以後現世とは関わりを絶ってしまいます。

後村上は南北朝のソフトランディングを目指していたと言われています。まず繊細な精神のためか、崇光の廃位と南朝の入京でショックを受けて出家し、精神状態が危ぶまれていた光明法皇はいち早く帰還します。

数年後には崇光・光厳・直仁も帰還しますが、そこで問題が起こります。後光厳は一時的ないわば中継ぎとして即位した、と崇光は判断しました。本来の皇太子である直仁親王は出家していたため、崇光は自らの皇子の栄仁親王に皇位が継承されるものと思っていたようです。

しかし、後光厳天皇は皇子の緒仁親王に譲位を希望します。崇光は幕府に皇位への介入を求めますが、当時の幕府を率いていた細川頼之は「聖断たるべし」と後光厳に判断を一任します。後光厳は儲君に緒仁親王を就け、同母のこの兄弟の仲は決定的に決裂します。ここに北朝でも皇統が分裂してしまいました。

幕府の対応はそこでは一貫しています。幕府はあくまでも後光厳を正統とし、崇光とその子孫には皇位を継承させない、という方針で一貫します。両統迭立の二の舞を恐れたのでしょう。

後光厳は権威の失墜に悩みながら崩御します。儲君緒仁親王は即位します。後円融天皇です。この後円融天皇の時に一大事が勃発します。これ以降は、秦野裕介先生のブログでお読みください。


第14回 南北朝の動乱   2019.04.11

南北朝の動乱です。建武政権はあっけなく崩壊し、南北朝の内乱に入っていきます。後醍醐天皇に対抗して担ぎ出されたのが光厳上皇です。光厳上皇を院に、光厳上皇の弟の豊仁親王を新たに光明天皇とし、後醍醐天皇に対抗しました。

後醍醐の劣勢は覆いがたく、後醍醐は一旦は足利尊氏と和睦します。その時に恒良親王に新田義貞をつけて皇位を譲り、神器を持たせた上で北陸に赴かせていますが、これは何を考えていたのか、私には謎です。後醍醐は恒良に譲位した上で自らは偽の神器を光明天皇に譲り、太上天皇の尊号を受け、自らの皇子の成良親王を立太子させます。ここまでしておいて後醍醐は全てのちゃぶ台をひっくり返します。彼は吉野に逃亡し、南朝を作るのです。

幕府の方も大変なことになります。足利直義と高師直の争いから観応の擾乱が起こります。この観応の擾乱は従来の一般的な見方としては寺社本所領のアポリアという説明がなされます。

幕府にとって天皇の権威は必要なのか不必要なのか、という見方とも関係してきますが、武士の権益拡大を目指す高師直と寺社本所領を保護すべきという足利直義の争い、さらには主従制的支配権を持つ尊氏とそれを代行する高師直と、統治権的支配権を持つ足利直義の権限争いなど、いろいろ言われますが、とりあえずつべこべ言わずに、亀田俊和「観応の擾乱」を読みましょう、というのが今のところの私からのおすすめです。

その過程で正平の一統と呼ばれる事件が起こります。直義は戦況を打開するために南朝に降ります。その甲斐あって師直を倒し、尊氏に勝利しますが、やがて足利義詮との対立のために北陸に逃亡します。尊氏は背後の憂いを取り除くために南朝と和睦します。この条件は思い切ったもので、当時皇位についていた崇光天皇を廃位して南朝方の後村上天皇に一本化する、というものです。

しかしこれは南朝側の一方的な和約破棄によって瓦解します。南朝は光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王を拉致してしまいます。困ったのは北朝で妙法院に入室予定だった弥仁王を無理やり即位させます。後光厳天皇です。神器もなく、院のバックアップもない天皇です。

後光厳の祖母である広義門院西園寺寧子を治天として担ぎ出してなんとか取り繕っていますが、北朝の権威は大幅に損なわれることになりました。光厳もこれには不満だったようで、尊氏も追認という形だったようです。

この後光厳院の時代はその後の皇位継承問題に大きく影を落とすことになりました。

もう少し詳しいことは木曜日午後8時30分からお話しさせていただきます。




第13回 鎌倉幕府と天皇家の分裂  2019.04.04

後鳥羽上皇の承久の乱は極めて大きな代償を朝廷に払わせることになりました。

泰時からの報告を受けて鎌倉では大江広元が指示内容を文書にまとめ、京都に送られました。この内容を受けて実際の後鳥羽らに対する戦後処理は遂行されたと考えられます。

まず天皇の廃位です。後鳥羽が擁立していたのは順徳皇子の懐成でした。順徳と九条良経の娘の立子の所生です。後鳥羽としては九条道家を摂政とするために順徳から譲位させたのでしょうが、幕府は廃位を決定し、伝達します。藤原頼経の従兄弟にあたるため、この決定は衝撃を京都にもたらしますが、幕府としては後鳥羽関係者を皇位から排除することが最低条件だったようです。

廃位となったため、天皇としての在位は認められず、太上天皇号も奉られませんでした。九条廃帝と呼ばれ、外伯父の九条道家に引き取られ、11年後に17歳で死去します。在位78日は最短の在位日数です。明治3年に仲恭天皇という諡号が定められ、歴代の天皇に加えられました。

仲恭天皇に変わって践祚したのは後鳥羽の兄にあたる行助入道親王の皇子茂仁王でした。後堀河天皇です。行助入道親王は俗名を守貞親王といい、安徳天皇の皇太弟として壇ノ浦まで連れ去られ、帰還後は後鳥羽の警戒のもとで最後は出家に追いやられた親王でしたが、ここに来て治天の君となることになりました。太上天皇号を奉られます。後高倉院といいます。在位経験のない太上天皇号は史上初めてです。

続きは、秦野先生のブログで

第12回 後鳥羽院政     2019.03.28

頼朝の死後、有力御家人の粛清が相次ぎ、将軍も二代の源頼家は外戚の比企氏と運命を共にします。そして源実朝が登場してくるのですが、実朝は外戚を後鳥羽の近臣の坊門家にします。

実朝といえば文弱に流れて武士らしさを失った人物、だとか、北条氏の傀儡で文化に逃避したとか、そういうイメージがまとわりついていますが、現在研究者ではそういう見方はほぼ見られないと思います。

特に五味文彦氏が源仲章の存在と政所別当の強化を通じて実朝政権の実態を明らかにして以降、実朝についてはしっかりとした権力を行使した将軍である、と評価されています。

実朝の一つの問題は後継者がなかなか生まれないことでした。実朝は後継者を後鳥羽の皇子に定めようとし、京都への接近を図ります。母親の北条政子が上京し、後鳥羽の乳母の一人である藤原兼子(土御門天皇の祖母の範子の妹)と交渉し、冷泉宮頼仁親王か六条宮雅成親王を次期将軍とする交渉をまとめます。

これは実朝がゆくゆくは後鳥羽の義理の兄弟になることを意味します。それにはふさわしい待遇があります。実朝の急速な官位の昇進はそのためと考えられます。中には「官打ち」と言って分不相応な官位に就くと死ぬという話がありますが、後鳥羽は官打ちを狙った、という「承久記」の見方は成り立たないでしょう。これは俗説としか言いようがありません。

実朝は誰に暗殺されたのか、後鳥羽上皇が引き起こした承久の乱とはどのようなものであったのか?
続きは、秦野先生の「研究者と学ぶ日本史講座」で

3月28日の講座へのリンクは上の「日本史講座予定表」をクリックしてください。


第11回 後白河院政     2019.03.21

保元の乱で勝利した後白河天皇ですが、特に全体を指揮してうまく勝利に持っていったのには信西の力量は非常に大きかった、と言えます。

信西は藤原忠通が率いることになった摂関家の解体に取り掛かります。このころ摂関家は公家権門として、宗教権門(興福寺・春日大社)・武家権門(河内源氏)を支配下に収めた巨大な権門として存在していました。元木泰雄氏はそれを「複合権門」と呼んでいます。ここでもその言葉を使います。

複合権門摂関家は新たに権門として自立しはじめた王家(天皇家)にとっては解体されねばならないものだったのでしょう。まず乱後、氏長者であった頼長が死去していたことを理由に後白河は忠通の氏長者を宣旨によって認定します。氏長者を天皇の命令で決定することはとりもなおさず摂関家の自立性の否定でした。

後白河の悩みの一つは自らの経済基盤が脆弱であったことです。鳥羽は自ら集積した膨大な荘園群を皇女の八条院に伝領し、八条院領として組織していました。後白河は頼長の所領を没収し、それを長講堂領として組織します。

かねてより本来の天皇候補者である守仁親王への譲位を美福門院が強く求め、信西がそれに応じたために後白河は早々に皇位を降り、二条天皇に譲位することになります。後白河は院政を企図しますが、当然二条こそ鳥羽の「正統」を継承していると考える人々との軋轢を引き起こします。

信西への反発はかなり広範囲に渡っていました。二条側近の経宗と後白河の側近の信頼が立場の違いを超えて連携したことが、この後の政治過程を複雑にしてしまいます。


第10回 院政の開始と展開  2019.03.14

摂関家を外戚に持たない後三条天皇の息子の白河天皇が、摂関政治に引導を渡した、というイメージで捉えられがちです。

しかし細かく見ると白河天皇は道長の息子能信の養女茂子を母に持つため、摂関家との関わりは深い方です。後三条の本命は源基子を母に持つ実仁親王です。ちなみに基子の祖父は道長に無理やり皇太子を引きずり降ろされた敦明親王です。従って白河天皇はあくまでも中継ぎでしかありません。白河天皇の即位とともに実仁親王が皇太子になり、冷泉皇統と円融皇統を統一した後三条による政治が続くはずでした。後三条が長寿を全うすれば後三条院政が始まっただろうと言われています。


しかし後三条上皇は譲位後程なく病に倒れます。結果白河天皇にチャンスが巡ってきます。

白河天皇は藤原頼通の息子の師実の養女の賢子をこよなく愛していた、といいます。しかし彼女は善仁親王を遺して死去します。白河は何としても善仁親王の即位を目指します。しかしそこに立ちはだかるのが亡父の後三条の決定です。

白河に天運が巡ってきます。皇太子実仁親王が急死します。その虚をついて白河は善仁親王への譲位を強行します。これがいわゆる院政の始まりですが、白河本人にはそのような思いはなかったでしょう。彼はただ愛する賢子の面影を残す善仁親王に皇位を無事引き渡したかっただけですから。

この白河の決定は摂関家にとっても渡りに船でした。師実の養女の所生の皇子ということは新たな天皇堀河天皇は師実の外孫になります。摂関政治は完全に復活したのです。

師実の息子で新帝堀河天皇の外伯父の藤原師通は堀河の関白となり、摂関政治は今まで通り存続していくかに見えました。実の娘がいなくても養女でも十分なのです。芸道に優れ、多くの人に慕われる誠実な人柄であったと伝わる堀河天皇と、剛毅果断で謹厳実直な師通はよいコンビでした。この二人がいる限り引退した白河上皇に政務に関与する余地はなかったでしょう。

比叡山の強訴に対しても師通は毅然とした対応で臨みます。強訴に屈しなかったのですが、その四年後、彼は病死します。38歳の若さでした。これがその後の歴史を大きく変えてしまいます。

師通が死去した時、後継者の忠実は22歳、官職も権大納言で、地位、経験とも大幅に不足していました。

誰が堀河天皇の後見をするのか。一人しかいません。父の白河法皇です。また摂関家でもまだ若い忠実を庇護するのは引退してしまった師実と親しい白河法皇しかいません。本人の好むと好まざるとに関わらず白河法皇は天皇家と藤原氏の双方から必要とされたのです。

師通の死後は堀河天皇もそのプレゼンスを急速に低下させ、彼も師通の死後八年後に死去します。ここで敦明親王の血を引く輔仁親王の登極の可能性も取りざたされたのですが、白河は堀河の遺児で皇太子だった宗仁親王の即位を強行します。5歳の幼帝である鳥羽天皇を補佐するのはもはや摂関ではなく直系尊属の白河法皇しかいませんでした。

1113年には鳥羽天皇呪詛事件が起こり、輔仁親王は失脚します。白河院政はここに確立することになります。

白河院政の力の源泉は天皇の直系尊属として人事権に介入することができたことでした。それをテコに自らの側近を受領に押し込みます。受領は得たその利益を院に寄進し、結果として白河は大きな経済的利益を手にします。また白河はいわゆる軍事貴族と言われる河内源氏や伊勢平氏も登用し、受領に抜擢していきます。

こうした院近臣と呼ばれる人々が院政を支えたのです。

第9回 摂関政治と天皇  2019.03.07

第一回目の「摂関政治と天皇」は、概ね清和天皇から後三条天皇を想定していますが、やはりここは藤原道長と一条天皇・三条天皇が中心で、後三条天皇が最後を締める、という感じになると思います。

清和天皇が皇位を継承した経緯や、そこでの外祖父で太政大臣であった藤原良房の職掌が「摂政」だったわけで、「摂政」が職名となるのはもう少し後のようです。関白藤原基経の場合は一つは文徳皇統から光孝皇統への転換が問題になります。この中で藤原基経による権力の掌握が進み、太政大臣藤原基経は「関白」という職掌を担当することになります。こうして「摂政」「関白」が誕生する訳ですが、まだ「摂政」「関白」は地位としては確立していません。したがって「延喜・天暦の治」なる幻想が登場してくる訳です。

醍醐天皇と村上天皇を「延喜・天暦の治」と呼びます。摂関が設置されておらず、天皇の親政が行われていた理想の時代です。後醍醐天皇と後村上天皇がそれを理想とし、それぞれ加後号にしています。しかし、当時の摂関というのはあくまでも太政大臣の職務のことであり、したがって摂関という地位が常置されているわけではありませんでした。したがって摂関が置かれていないということが即天皇親政が十全に行われていたことを意味しません。


醍醐天皇の時には父親の宇多上皇が健在で、父権を通じた政治への介入が行われていました。特に藤原時平と並んで宇多が引き立てた文章博士出身の菅原道真に内覧の権限を与えたことに貴族層の反発が強まり、道真は失脚します。道真の怨霊によって時平と醍醐が相次いで没したため、その後の政治は道真と親しかった藤原忠平の主導するところとなり、幼帝朱雀天皇を摂政として後見したのちは関白として引き続き朱雀を後見します。これはもちろん忠平が太政大臣だったからであり、太政大臣のポストと摂関は不可分のものだったのです。

朱雀は後継者を残せなかったため弟が即位します。村上天皇です。村上天皇の時代には忠平の死後の後継者をめぐり、忠平の子で左大臣の実頼と右大臣の師輔の兄弟のいずれも太政大臣に登ることはなく、結果として天暦の治が実現します。もっとも「延喜・天暦の治」というのは後世の喧伝であり、摂関の不在が即藤原氏の勢力後退を意味するのではないことはもちろんです。

村上天皇の次は冷泉天皇が即位しましたが、冷泉天皇には奇行が多く、後見の必要性から外戚ではなかったにも関わらず藤原氏の長老であった実頼が関白に就任します。これは冷泉天皇の外戚にあたる師輔がすでに物故していたことと、師輔の子どもたちがまだ若年であったことが原因です。しかし外戚であることに権力の源泉があるのが摂関政治の一つの特徴です。

続きは、秦野先生のブログで

第8回 蝦夷地・琉球と室町幕府 2019.02.28

室町時代の「蝦夷地」を理解するためには二つの視点が必要です。

一つは室町幕府の都鄙関係論です。室町幕府はいかにして遠国を統治していたのか、という視点です。ここをすっ飛ばして足利義教の「酷薄」「先制」というイメージで義教が遠国に強力に介入した、と考えてしまうところから十三湊還住説が出てきているのではないか、と考えています。

もう一つは、アイヌと和人の関係です。関根達人氏が提唱する「蝦夷地史」が今日の代表的な視点でしょう。本来「日本」ではなかったアイヌモシリが「蝦夷地」として「内国化」していくという視点も必要でしょう。

その見方がクロスする研究分野が津軽安藤氏研究ではないか、と考えています。津軽安藤氏研究は実際に中世の北海道史を研究する際に非常に大きな手がかりとなってきました。

津軽安藤氏が注目されたのは皮肉なことに今日では完全に「偽史」として認定された『東日流外三郡誌』がきっかけです。天皇中心のヤマト史観を脱構築するものとして神武天皇と戦い敗れた長髄彦の子孫という安藤氏が作り上げた十三湊というもう一つの中心から見た日本史が人々の心を捉えたのは70年代以降です。

しかしその中身は荒唐無稽で、かなりのデタラメが含まれていることは一見して明らかでした。問題はその中にどの程度使えそうな古史古伝が含まれているか、ということだったのですが、現状ではそこを深く追求しても多分無理である、というのがコンセンサスと言っていいでしょう。仮にそこに実は注目すべきだった古史古伝が残されていた、としてもあそこから拾い出す気はしないし、すべきでもない、ということは言えると思います。

では『東日流外三郡誌』から離れた津軽安藤氏ということになりますが、これも非常に曖昧なものしか出てきません。いわゆる一次史料はほぼありません。

数少ない一次史料から津軽安藤氏の姿を復元する取り組みは私も進めておりますが、なかなか進みません。その一端は「鎌倉・室町幕府体制とアイヌ」にまとめてあります。現在HUSCAP(北海道大学学術成果コレクション)がサーバ移転作業のために見ることができません。見ることができることを確認出来次第、こちらからもリンクを貼ります。

一次史料から見た安藤氏は木曜日のお楽しみ、ということにして、ここではインチキな面も含んだ津軽安藤氏像をお届けします。

続きは、秦野先生のブログでお読みください。

第7回 朝鮮使節の見た室町日本 2019.02.21

江戸時代には朝鮮から通信使が来るのみでしたが、室町時代には相互に通信使を出し合っていました。

朝鮮王朝は非常に手続きに厳密です。これはおそらく儒学と関係があると思います。やってくるのは通信使、通信使への返事は回礼使、拉致された人々の送還を担当するのが刷還使というように、その役割に応じて名前が付けられていました。

室町時代には何回か来日していますが、詳細な記録が残っているのが1420年に来日した日本回礼使の宋希璟(ソン・ギヒョン)の時と、1443年に来日した日本通信使卞孝文(ピョン・ヒョムン)の時です。

まず一人目は老松堂という号を持つ宋希璟です。彼の『老松堂日本行録』には様々な彼なりの観察が見られます。

彼が来日した前提が応永の外寇です。こじれた日朝関係の中で足利義持は通信使をとりあえず派遣し、朝鮮国王に挨拶と大蔵経を贈ってくれるように頼みました。その義持の通信使に対して派遣された回礼使が宋希璟です。

彼は対馬から博多に入り瀬戸内海を通って兵庫につき、そこから陸路で京都に向かいます。

京都では斯波義淳が宋希璟の応接に関わり、亡命元人二世の陳宗奇など室町幕府に仕えていた国際人たちが交渉に当たります。足利義持は宋希璟との面会に応じ、日朝間の懸案は解消されます。この背景に清水克行氏は「義持の前のめりの『徳政』への熱意とその空回りによる焦燥からくる孤独感を、宋希璟の行動が救ったのではないか」としています。

詳しくは、秦野裕介先生のブログでお読みください

第6回 日明貿易と日本国王 2019.02.14

「日明貿易と日本国王」を理解するためにはまずは海禁体制と貿易について理解しないといけません。海禁体制とは「下海通蕃の禁」の短縮です。字のごとく海外渡航や外国との交易を禁止する、という意味です。明代に設定され、清にも引き継がれます。

海禁体制の基本は「人臣に外交なし」という言葉で言い表せます。明皇帝から冊封された国王のみが明皇帝との関係を持つことができるのです。

皇帝を中心とした華夷秩序において、国王は皇帝の周辺に位置して皇帝から冊封された土地を治める存在です。燕王などの諸王と日本国王や朝鮮国王などの諸国王は実は同じ「王」です。明皇帝から冊封された王のみが皇帝と直接関わることを許されます。したがって皇帝と交渉できるのは国王およびその使節のみです。

 そのもとでの貿易は朝貢貿易、公貿易、私貿易に分類されます。我々は冊封体制といえば朝貢貿易だけに目が行きますが、実際にはそれ以外にも様々な貿易形態がありました。

朝貢貿易は言わずと知れた、朝貢ー回賜の関係からなる貿易です。周辺の蕃国は朝貢品を皇帝に貢ぎます。それに対し皇帝からは回賜品が送られます。周辺の蕃国にとっては極めて大きな経済的利益があるわけです。明にとっても大きな意味があります。多くの蕃国が皇帝の徳を慕ってやってくる、という図式を作ることは、皇帝の権威をこの上なく向上させる意味があります。

公貿易は朝貢品以外のものを明の官衙が買い上げるものです。これもかなり周辺諸国に有利なようになっています。私貿易は皇帝の許可した商人と使節の貿易です。

最初の日本国王は「日本国王良懐」。よく知られている「日本国王源道義」=足利義満に先行する日本国王です。

これはダイジェストです。詳しくは秦野裕介先生のブログで



第5回 倭 寇    2019.02.07

倭寇は日本人であったのか

室町幕府と朝鮮王朝、そして明王朝が作り出す朝貢システムからはみ出た集団に対するレッテルが「土一揆」であり「倭寇」だったのである。

例えば、少弐氏。「日本」とは室町幕府そのものでしかないのであって、室町幕府から治罰御教書を受け、「土一揆同心」と名指しされている少弐氏は「日本」から脱落していたのである。

上は秦野先生の論文『「倭寇」と海洋史観』からの抜粋です。

論文を執筆の動機の一つは、当時流行していた海洋史観に対する疑問があったことです。例えば川勝平太先生は「環シナ海域を舞台に日本人(だけでなかったが)は暴れまわった」と書き、小林多加士先生は「倭寇の活動を日本は巧みに体制内に取り込みつつ制御したのに対して、中国はそれを体制外に放り出し排除していた」ことが「中国と日本の明暗を分けた」として倭寇活動を日本の経済発展の原因になっている、という議論をしています。

いや、日本ってそんなに海洋指向だったっけ?というのが私の意見です。そもそも「倭寇」を「日本」というのはそんなに自明のことだっけ?とかいろいろ考えてしまいます。

倭寇は日本人とは限らない、というのは田中健夫先生、村井章介先生、高橋公明先生をはじめとした対外関係史研究の進展によって指摘されてきたことですが、1990年代後半ごろにはそれに対する批判的な見解が出てきたことも事実です。浜中昇先生や先ほどあげた李領先生などがそれに相当します。

詳しくは秦野先生のブログ



(観応の擾乱で、足利直義が政権を掌握したのですが・・・)

高師直を殺してうまく天下を取ったはずの直義がなぜだか不利になって追い詰められて京都を脱出するのですが、これが大きな破紋を引き起こします。

九州にいる足利直冬を討伐する必要が生じたわけです。で、もともと直義に近い少弐頼尚も直冬討伐に駆り出されることになり、兵糧集めが大変です。

高麗では12歳の中定王の時代です。このころの高麗は中恵王の暴政で国が乱れ、中恵王の死後も幼君が続き、急速に国が傾き始めたころです。

『高麗史』には「この時より倭寇の侵略が始まった」と記されていますが、それ以前から「倭寇」は記録されているので、この時以降、倭寇が大規模化した、という風に取られています。

李領氏の『倭寇と日麗関係史』はこの問題に切り込んだ名著です。

李氏は庚寅年以降、爆発的に増加した倭寇の数を、多くの倭寇が一斉に朝鮮半島に渡ったのではなく、一つの大規模な集団が繰り返し襲撃したため、倭寇の数が増えたように見える、と指摘し、さらに集団の大規模化についても考察をしています。

それまで数人からせいぜい十数人の集団が倭寇だったのに対し、数千人レベルで、しかも騎馬軍団とあっては、これは庶民の蜂起や対馬などの海民集団ではなく、なんらかの正規兵だろう、と考えられるわけです。

 李氏が注目したのが少弐頼尚でした。直冬下向で、後醍醐天皇の皇子の懐良親王率いる南朝方と直冬方の腹背に敵を受ける形となった少弐頼尚はとりあえず兵糧その他の調達手段を朝鮮半島に求めたのではないか、という見解です。

 李氏はそこまでしか検討していらっしゃいませんが、私見では少弐氏による兵糧の調達はその後も続いている、と考えています。

詳しくは秦野先生のブログで



第4回 応仁の乱  2019.01.31

日野富子が悪人という見解は消えたが

応仁の乱の原因は何か、といえば色々出てきます。どれが決定的か、ということは言えないのですが、現在では日野富子が悪い、という見解だけは消えつつあります。ただ富子の立場についてはまだはっきりしておりません。

日野富子さんが悪し様に言われるのは、やはり義視が後継者と決まっていたのを富子が自分の生んだ義尚を後継者にしたくて山名宗全と組んで細川勝元に対抗した、と言われます。それが応仁の乱の原因だと。

しかし不思議なことがあります。義尚と富子が山名宗全派なのになぜ彼らは細川勝元の庇護下にいるのか、とか、なぜ義視が宗全にのちについて、富子らは東軍になるのか、とか、わけのわからんことがいっぱいあります。

要するに宗全は富子とは結んでいません。

ではなぜ宗全と富子が結び付けられてしまったのでしょうか。私はそれを誤って結びつけてしまった人物がいると考えています。その人物の誤りが現在まで引き継がれていると思います。

この誤りをしっかり補正しないから
「富子は義尚を無理に押してはいない」
「富子は宗全と組んで義視と対立していた」
「義視が宗全に寝返ると富子は勝元に寝返った」
という意味不明な動きを富子はするようになるのです。

ではその間違いとはなんだったのでしょうか。

それはオンライン歴史講座をお楽しみに。

これはダイジェストです。全文は秦野先生のブログで。

第3回 嘉吉の乱  2019.01.24

今回は嘉吉の乱を取り上げましたが、むしろ嘉吉の乱に至る足利義教の動きを中心に、後花園天皇の綸旨の頻発についても取り上げました。

 義教に関しては「万人恐怖」というようなイメージで捉えられ、「狂気」すら漂わせるようなイメージで語られてきましたが、そのような作られたイメージに疑義を出してみよう、というのが一つのテーマです。

かいつまんで言いますと、守護の家督介入ですが、守護家の力を削ぐため、自分に都合の良い人物を選んで家督を継がせた、とみられがちですが、斯波武衛家や京極家や山名家の家督介入はむしろ無用な混乱を避けた効果があるのではないか、と考えています。ただ畠山家や富樫家への家督介入のように将来にわたって禍根を残したケースは多々ありました。

公家への暴力ですが、これも見境なく行った、というよりは義満・義持期と力をつけてきた名家層への圧力という見方を紹介しました。近年では義教の政策を単なる暴力としてとらえる視点を相対化する試みがなされています。

後花園天皇の綸旨に関しては田村航先生の「揺れる後花園天皇」(『日本歴史』818号、2016年)で主張されている、幕府の権威を後花園天皇にカバーしてもらったのではなく、権威を確立できない後花園天皇のために綸旨を使った、という見方を紹介し、その論に従って説明していきました。

これからの展望ですが、私としては嘉吉の乱を足利義教・赤松満祐・後花園天皇・万里小路時房・細川持之・山名持豊・畠山持国といった人々の人生の交差点として把握してみたいと考えています。義教の将軍継承から始まって嘉吉の乱に至る政治過程を総合的に見る叙述をいつか完成させようと思っています。その帰着点は赤松満祐の切腹ではなく、むしろ禁闕の変と長禄の変に置かれるべきで、赤松次郎法師丸の擁立を以って区切りとなすべきと考えます。赤松次郎法師丸の擁立は、次の応仁の乱の一つの原因ともなるからです。私独自の叙述の視点として、その一連の流れを後花園天皇の視点から見ていきたいと思っています。

オンライン講座の録画


秦野先生のFacebookより

第二回オンライン歴史講座、無事に終了しました。ご参加くださった皆様、ありがとうございました。活発な議論となり、大変楽しかったです。やはりZoomの威力は大きいと思います。私もただひたすらカメラに向かって話すのでは非常に平板でつまらないものになってしまいますが、私の実力不足を周囲の方々に救っていただいています。
来週は嘉吉の乱ですが、足利義持から足利義教という時代を見ていきたいと思います。よろしくお願いします。